過去2度受講したこの“大宰府講座”ですが、しつこく3度目の受講です。
今年度から面接授業の時間割が大幅に変更になったので、
1日目が5時間の座学、2日目が3時間のフィールドワークとなりました。
ちなみに、
1年目(一昨年)のフィールドワークは、水城→大野城→観世音寺
2年目(昨年)のフィールドワークは、水城→政庁跡とその周辺→観世音寺
といったコースでした。
2年とも雨や雪にやられ、寒さに凍えていたフィールドワーク。
今年は11月7日〜8日と例年より少し時期が早い。
さて、どうなりますことやら。
まずは、授業が行われたのがこちら“九州歴史資料館”
ここは実は九州国立博物館の駐車場の端にある建物でして、
中はすっかり老朽化して、あちこち綻びているのですが(苦笑)、
平成22年に移転することが決まっていて、既に新しい建物は出来ているとのこと。
あとは展示物などを搬入するだけの状態なのだそうです。
なので、この建物はあともう少しの命。
きっと取り壊して駐車場と化してしまうのでしょう。
うーん、なんかちょっと淋しい。
1日目の座学は、この建物内で行われました。
2日目のフィールドワークは、ここから出発。バスであちこちを巡ります。
この授業に集まっているのは地元民はもちろん、遠くは関東圏からという方も。
初対面というのも少なくないので、バスではあちこちで話に花が咲きます。
ちなみに、私の隣に座られていたのは神戸から来た大学の先生だそうで、
神戸学習センターのこととか聞かせてもらいました。
まずは春日市へ。
バスを降りて住宅街を歩いていくと見えてきたのがこちら。
ここは春日市から発掘されたものを展示・保存しているところ。
立派な鏡や宝飾品などが出土されていることから、王の墓があったとされているそうです。
その王の墓がこちら。
その近くには甕棺墓が出土した場所や、住居跡などもありました。
ちなみに、当日は地元のイベントが開催されていて、普通のコミュニティスペースになってましたけどね(笑)。
再びバスに乗って“水城”へ。
ここは今は木がこんもり茂っていますが、そこが堤防になっていて、
写真の左から右(久留米方面から博多方面)に向かって水を流し、
その水をせき止めておいて博多湾からやってくる外敵を防ぐのが目的だったそうです。
水城を見渡せる展望台に登るのですが、一昨年・昨年と寒くて仕方なかった場所。
今年は暖かく…というよりも、結構傾斜があるので登ったら暑くて暑くて。
まぁ、寒いよりは格段にいいのですけどね。
で、去年と一昨年は水を流したという“木樋(もくひ)”も見せてもらったのですが、今年は残念ながらスルー。
なので、通りの向こうにあるにも関わらず強引に撮影。
ちなみに、昨年近くで撮影したのがこちらです。ご参考までに。
※WILLCOM03での撮影分ですので解像度落ちます
さて“水城”の跡はいよいよこちら“大宰府政庁(都府楼)跡”へ。
ここで各自昼食タイムなのですが、私はひとり昼食前に写真撮りまくり。
まずは南門跡。
次に中門跡。
そして築地は植木で再現。
こちらはは回廊跡。
最後は正殿跡。ここには3つの石碑が並んでいます。
礎石は復元したものもあるようですが、平安時代のものがそのままというのもあり。
普通に見てたらただの石なんだけど、平安時代のものだと思うと趣深くなるから不思議。
こちらが政庁の全景です。
写真では分かりづらいですが、回廊の植え込みの向こうに左右に建物のあったと思しき礎石もあります。
後ろにそびえるのが四王寺山。この中に大野城があります。
この山の中は一昨年回りましたが、石塁や土塁がいっぱいです。
そして、政庁の正殿から見る風景がこちら。
正面に真っ直ぐに伸びている道路が当時の朱雀大路ではないかと言われているようです。
この政庁跡。
一部では建物を復元してはどうか、という案もあったそうで、
昨年のレポートでも「今後の遺跡のあり方について」というテーマが出たのですが、
みんなで伸び伸び遊べるスペースとして使う方が有意義だし、
このままでいいんじゃない?みたいなカンジなんですが、どうなんでしょうね。
ちなみに去年もそうでしたが、今年も天気がよかったので遊びにきている家族連れや、
お散歩しているカップルがたくさんいました。
市民にとっては気軽に来ることができる場所があるのは重要だと思う、
というようなレポートを私は提出したのですが、皆さんの意見はどんなカンジなんでしょうね。
さて、この政庁周辺は今で言うところの官庁街にあたるわけで、
それにまつわる遺跡が数多く点在しています。
その中で今回訪れたのは“蔵司(くらつかさ)地区”。
ここは私有地だったそうで、買い上げて今年から調査開始とのこと。
既に礎石がずらっと並んでいて、建物があったことは容易に想像できますが、
まだまだいろんなものが出てきそうな気配のする場所。
足元にちょっと石が見えたので、これも何かの跡?とか思ったりして。
ちなみに、この調査地で見つけた木になっていた柿は誰が食べるんだろう、
なんてことも思ってしまった不届きモノです。
ここから歩いて観世音寺へ。
その途中にも遺跡があったのでご紹介。
政庁のすぐ隣(蔵司とは逆隣)にある“月山東(つきやまひがし)地区”。どんな役所だったのかは不明。
“学校院地区”。役人養成所があったところ。
この隣に“戒壇院”がありますが、それは後ほど。
さて、ようやく到着。“観世音寺”。
これから観世音寺をぐるっと一周。
まず真正面に見える講堂。
その隣に金堂。
金堂の裏(観世音寺の隣)には、日本に3ヶ所しかない戒壇院が。
瓦に“西戒壇”の文字がありますね。
戒壇院の裏には観世音寺の導師・玄ムの墓があります。
一般人の家の庭先。何ゆえこのような場所に…。
観世音寺講堂の裏に回ると僧が居住していたとされる僧房の跡。
礎石がずらりと並んでいます。相当数の方が住んでおられたのでしょう。
さらにぐるっとまわって五重塔の跡。今は心礎を残すのみ。
五重塔の隣には、国宝の鐘。
ゆく年くる年にも登場しました。大晦日にだけ突く事ができます。
さぁ、いよいよ最後。宝蔵へ。
この宝蔵の大ファンである先生が1日目の授業に登場しました。
なんでも卒業研究の題材として取り上げ、通い詰めていたほどだとか。
現在は九州歴史資料館で主に美術史を担当されているそうですが、
一昨年、昨年と宝蔵で熱く語り、今年の授業でもそれはそれは熱く語って下さいました。
…が、毎年毎年語り足りないみたいでして。
結局最後は「自分の目で見てください。それに敵うものはないですから」で締めくくり。
でも確かにその通りなんですよね。こういうものは自分の目で見るのが一番。
特にこの宝蔵には丈六像(立像で5メートル程度、坐像で3メートル程度)が多い。
入っていきなり大きなお釈迦様やら観音様がドーンと並んでおられるわけでして。
圧倒されますね。あんなに大きな仏像たちがずらっと並んでいると。
先生曰く、京都や奈良に行かなくてもここで十分に堪能できる、ということです。
確かに一見の価値はあると思います。
ここは撮影禁止なので写真はありませんが、機会があれば是非実物をご覧下さい。
ちなみに、拝観料が必要ですのでご注意を。
ということで、今年のフィールドワークは天気にも恵まれ、スムーズに終了。
残すはレポートのテーマのみ。
昨年はもらった資料にレポート用紙が3枚。これを1週間でと言われて唖然。
でも今年はレポート用紙が1枚だったので、ホッ。
としたのも束の間。テーマの内容を見てギョッ。
「通史的にレポート用紙1枚以内2,000文字以上」
うわ。2,000文字…と思ったら、訂正が入って1,000文字以上となりました。
ただ、実際にレポートを書き始めると意外と書くことが多いことに気づき、
1枚ギリギリ(A4サイズ両面)、文字数4,000文字超という結果になりました。
“通史的に”というのがポイントだと思ったので、
とりあえず歴史の流れに沿って書いてみたつもりですが、果たして結果はいかに。
ま、白紙じゃないから単位ください、と言いたい気分ではあります(笑)。
3年連続で受講して結構太宰府周辺に詳しくなったかも、と勝手に思ってマス。
小学生の頃にも太宰府の歴史を学んだことがありましたが、その時よりは格段に知識が増えてます。
全国的には菅原道真が左遷された地であり“太宰府天満宮”がある場所というイメージでしょうが、
それとはひと味もふた味も違う太宰府を知ることができたのは、
福岡県民としては大変有意義なことだったと思ってマス。
私はこれを最後の大宰府講座にしようと思っていますが、
来年度(平成22年度)の2学期にもこの講座が開かれるそうです。
(福岡のセンター長が言うのだから間違いないでしょう。)
興味のある方は是非登録して太宰府の歴史に触れてみてください。
きっと今までとは違う太宰府が見えてくると思いますよ。
※太宰府と大宰府の違いは?
今回の日記では“太宰府”と“大宰府”を一応使い分けているつもりです。
諸説あるようですが、元々“太”“大”にはそれほど大きな違いはなく、
古い書物に“太宰府”の表記もあるそうですが、多くは“大宰府”と表記していたようです。
ちなみに現在の使い分けは
・太宰府=地名・施設名称等(太宰府市・太宰府駅など)
・大宰府=平安時代に九州を治めていた役所
という扱いが一般的なんだそうです。
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